文献短評

 
 
 
『マニ教とゾロアスター教』

山本由美子
山川出版社、1998年

 「マニ教とゾロアスター教」両宗教とも日本人には、名前以外は馴染みの薄い宗教であろうが、本書を読むとその世界史に於ける役割の一端を垣間見ることができる。小冊子故、その教義や哲学観念などについて多くの情報を伝えるには至っていないが、例えば、マニ教の他宗教・他文化への影響を論じている部分など、この宗教の広がりが如何に大きかったのか、と言うことが手短に、分かりやすく説明されているため、非常に読みやすいものになっている。

 また、著者山本氏はこの両宗教の特徴を述べると同時に、それらを育んだ、或いはそれらの影響を受けた「イラン世界」というものを説明しようとしている。私はこのことこそ、本書を執筆した山本氏の真の目的ではなかったかと考える。

 イスラム史研究に於いて、現在のイラン・イスラム共和国を中心とする広大な地域は、しばしば一つの世界という枠組みを与えられ、その枠組みを定義づける言葉として、「ペルシア文化」と言う言葉が当てられてきた。イスラム教が普及し、以前の慣習などが影を潜めていく中で、イランという地域が何かまとまりを持つ地域であるように述べられてきた。しかし、そのような雰囲気を感じさせながらも、明確な言葉で説明を加えた研究は無いと言ってよいだろう。そういう意味では本書もまた、明確な答えを与えるものではないが、イスラム教の普及以前に於ける「イラン世界」のまとまりについて、ゾロアスター教などに示された観念から、「イラン世界とは何か」と言う疑問を考える上での、ささやかな材料を提示していると言える。また、如何なる武力制圧、異文化の普及に対しても粘り強く生き残る文化が存在し、そういった文化がいつ、どの様にして形成されるのかということを考える契機として、本書を手にするのもよいであろう。(橋爪烈)

戻る

 
 
 
『岩波講座世界歴史 10 ―イスラーム世界の発展 7− 16 世紀』

佐藤次高編
岩波書店、1999年

 佐藤次高氏によって編まれたこの巻には、計 11 本の論文が収められている。巻末の紹介によると、執筆者の年齢層別分布状況は、50 代 4 名、40 代 2 名、30 代 4 名、20 代 1 名である(平均は大体 41 歳か)。あくまで印象論に過ぎないが、この本にはそういう世代論を考えさせるような何かがある。たとえば「国家論」を論じる佐藤次高氏と儀礼都市カイロの「政治文化」を論じる長谷部史彦氏の視線、あるいは関心のラインの違いにその何かが見てとれるのではないだろうか。それともこうして世代論に眼がいってしまうのは、1960 年代前半生まれの四人衆、大稔哲也氏、長谷部氏および清水和裕氏、岩武昭男氏の論文に、テーマは違うとはいえ、ある共通の「かおり」を感じるからかもしれない。また、所収の少なくとも 2 論文で嶋田襄平氏の論の見直しがなされていることも、そういう詮索に私を走らせているにちがいない。

 各論文についていちいち感想を述べるスペースも能力もないが、少なくとも通読して勉強になる本だとはいえると思う。最も「チャレンジング」な論文は、清水論文「マムルークとグラーム」ではないだろうか。(森本一夫)

 
 本書は、既に森本氏によって紹介されているが、数多くの論文が収録されているため、その中の一つに焦点を当てて紹介することも無駄ではないと思われる。よって今回は、本書の巻頭を飾る佐藤次高氏の論文である「イスラーム国家論」に対する書評を試みる。

 まず、著者は「イスラーム国家論」という題を掲げ、この歴史学の正道とも言える国家論を、今何故、再考するのかという理由を述べている。詳述は避けるが、その中で、現在のイスラーム史をめぐる研究状況についての著者の警告が示されている。それは、現在盛んに行われている商業や知識人達のネットワークに関する研究がイスラーム世界の国家論、すなわち、王侯・知識人・商人・民衆といった、イスラーム世界 に生活する全ての人々を包括する社会秩序に対する研究を曖昧にしたまま、行われているということである。この意識は著者のこれまでの研究の積み重ねによって、培われてきたものであろう。そして、その積み重ねは本書の中でも十分に生かされている 。

 本論に入ると、著者はこれまでの研究、すなわち『中世イスラム国家とアラブ社会』や『マムルーク』や『イスラームの「英雄」サラディン』などの著作の成果を取り入れ、イスラーム国家論を展開させている。また、海外の研究成果をも十分に考慮し、これまでの「イスラーム国家論」研究、特にその中心的議題であるカリフ論を中心とする研究の経過を分かりやすく説明している。現段階に於ける「イスラーム国家論」研究の最高水準が示されていると言っても過言ではない。また、各議論に関する著者の見解と若干の疑問を提示して、後学に対する問題提起も随所にちりばめられている。

 しかし、若干の問題点も存在する。それは、この論文の扱う地域がイラーク・シリア・エジプトに限られていると言うことである。そして、それに関連して、預言者ムハンマドに始まり、ウマイヤ朝・アッバース朝カリフ体制を経て、マムルーク朝に至る歴史に重点が置かれており、エジプト以西の王朝やイラン地域の王朝に関する事例が欠落しているということに問題があると思われる。これは欧米の研究の持つ傾向をそのまま踏襲していることが考えられる。すなわち、本書でも述べられているように、カリフ制が国家の基本であり、秩序の源泉であることを意味し、それが従来の欧米の研究の基本路線であるということであって、ファーティマ朝や後ウマイヤ朝のカリフ論(国家論)を踏まえた上での研究ではないのである。

 以上述べてきたように、この著者の論文は現段階に於ける「イスラーム国家論」の到達点を示しているが、これをもって「イスラーム国家論」研究の終了ではない。この論文を出発点に、さらに「イスラーム国家論」研究を進めることが、後学の使命である。(橋爪 烈)

戻る

 
 
 
Hamd Allah Mustawfi. Zafar Namah: Bih Inzimam-i Shahnamah. 2 vols.

Nasr Allah Purjawadi and Nasr Allah Rastigar編
Teheran & Wien, 1377Kh./1999

 イルハン朝後期から末期にかけて活躍した官僚にして歴史家、Tarikh-i Guzida, Nuzha al-Qulub の著者として著名な Hamd Allah Mustawfi の、これまた著名な韻文歴史書 Zafar Namah が出版されるというニュースを聞いたのは、昨年末来日された大英図書館の Mohammad Isa Waley 氏からであった。それ以来、いくつかのツテで入手を試みていたが、ついに先日現物を手に取ることができた。短評というよりは単なる出版情報であり、かつ門外漢の私がこの書物を取りあげて紹介するには、この国にはイルハーン朝期史料論の専門家が多くて気後れするが、短評の可能性をひろげる意味からも敢えて筆をとることにした。

 校訂本かという期待を裏切り、この本は大英図書館所蔵写本(Or. 2833, 書写 807A.H.)のファクシミリ版である。Zafar Namah には他にもイスタンブルにそれぞれ 808, 838 A.H. に書写された写本が伝存するといい、本書の序文を読んだだけでも、大英図書館本が抜きんでて最良の写本であるとは決して自明視できないとわかる。しかし、この本の実質的な編者であるラステガール氏は、イスタンブル本を見ずしてこのファクシミリ版を出版している。様々な事情があったのだろうとは思うが、大層残念である。75,000 バイトからなるこの作品の校訂は並大抵の作業ではなかろうが、ひとつの写本をとりあげてファクシミリ出版するなら、なぜその写本を選んだのか、もう少し説得的に論じられるよう準備をしてもらいたかった。

 すでに、「その写本のマイクロ持ってる」と、関心を失った方もいらっしゃるに違いないが、さらに説明を加えておくと、本書には、ラステガール氏によるドイツ語、ペルシア語の2カ国語による序文が付されている。また、印刷も美しく仕上がっており、装丁もシックである。なお、Zafar Namah に関する最近の研究として、C. Melville."Hamd Allah Mustawfi's Zafarnamah ..." in K. Eslami ed. Iran and Iranian Studies: Essays in Honor of Iraj Afshar. Princeton, N.J. 1998 があることも申し添えておく。(森本一夫)

戻る

 
 
 
『アフリカの民族と社会』

福井勝義・赤坂賢・大塚和夫
中央公論社、1999年(世界の歴史24)

 アフリカの歴史について、民族と自然・内外の交流・イスラームを3つの大きなテーマに掲げ、文書史料のみならず現地調査の成果を駆使して描く。従来の歴史研究に多用された、年代を追う記述の方法にはこだわらない。豊富なカラー写真と図、筆者の体験談によって大変読みやすくなっており、語り口もやさしいので、予備知識がなくても気軽に読むことができるだろう。本書では、まず、人類の発祥と生活及び民族の問題が取り上げられる。大部分の社会が文字を持っていなかったアフリカでは、絶対年代による編年史の構築はほぼ不可能であるとし、民族誌の視点から歴史を考える。また、民族は我と彼を区別する意識から形成され、流動的であるということについて考察する。続いて、王国や都市の有り様、アフリカとヨーロッパ諸国との接触が取り上げられ、奴隷交易や植民地支配を通じてアフリカに野蛮・未開といったイメージが与えられてきたことに対し、実際のアフリカの姿の一端を描き出す。最後に、イスラーム化やイスラームの果たす役割について、宗教的知識人のイスラームとそうでない人々のイスラームとの差異に注目しつつ考察し、更に18世紀以降のイスラーム改革・復興運動について述べる。1つのテーマで1つの部が構成されているので、各部ごとに興味新たに読み進めることができよう。

 アフリカという広大な地域の歴史を1冊で表現しようとしたために、取り上げらている事柄はごく限られたものになってしまっているが、アフリカの歴史を広く紹介する上で、宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(講談社現代新書1366、1997)と共に、大きな役割を果たしてくれることだろう。(内田あかね・お茶の水女子大学修士課程)

戻る

 
 
 
『砂漠のりんご―カイロ・パソコン物語』

田嶌徳弘
ローカス、1999年

 1992 年 11 月から96 年 9 月まで特派員として毎日新聞カイロ支局に赴任していた筆者による、肩肘張らない現地体験記である。毎日新聞ホームページ「ジャムジャム(JamJam)」http://www.mainichi.co.jp/に連載されていた同名のエッセイが元になっている。

 書名からも察しがつくように「マックユーザー」である筆者は、Power Book100 を片手に北はトルコから南はソマリアまで、西はモロッコから東はイランまでの中東アフリカ諸国を飛び回る。カイロでは突然の停電に泣き、ベイルートでは電話の不通に苦しみながら、バグダードでは同業者の持つ衛星電話を借り、テヘランでは特製ワニ型クリップ付きケーブルを駆使して、東京本社に生きの良い記事を送るため悪戦苦闘する様がここには描かれている。中東和平協定や、カイロでの爆破事件、イエメン内戦、経済制裁中のイラク情勢などに関する、現地特派員にしか書けないような臨場感溢れる文章も面白いが、本書の眼目は、未だ日本では情報の少ない中東の通信事情に関する記述にあろう。日本語システム上でアラビア語を表示させようとする筆者の先駆的努力は日本の中東研究者の多くが共感しうるものであるし、今でこそ一般的になっている「インターネット」にカイロという僻遠の地(?)から初めて接続した筆者の心意気には心からの喝采を送りたくなる。中東和平をコンピュータの OS に例え、その「β版」を無理に走らせることで「爆弾マーク」が出ることを危惧する下りは、マックユーザーならではと言ったところであろう。

 本書には、一部の旅行記ものに良くあるような押しつけがましさや鼻にかける態度は見られず、締切りに追われて汲々とする一新聞記者の悲哀すら感じられ、好感が持てる。ここ数年で内外の通信事情は大きく変化しており、カイロなど大都市では本書の体験談ほどの悲惨な通信状況は克服されていると思われるが、これから留学や旅行などで現地でのパソコンの利用を予定している方には是非とも読んでいただきたい一冊である。(中町信孝)

戻る

 
 
 
『Windows95 版 人文系論文作法』

中尾浩、伊藤直哉
夏目書房、1998年

 もはや論文執筆に全くパソコンを使用しない研究者は、人文系であってもかなりの少数派になったと言えよう(少なくともこの頁をご覧の読者はパソコン上で読んでいるはずである)。その使用範囲にしても、当初は単なる論文作成の最終段階で清書用ワープロとして用いていたものが、今やインターネットや CD-ROM を通じた情報収集から自分のパソコン上でのデータ構築と加工と、論文作成の準備段階にまで広がりつつある。本書は、人文系の研究者を対象に、論文作成の準備段階から最終の執筆に至るまでの各局面で、パソコンがどのように役立ちうるのか、著者自身の手法を紹介したものである。

 本書の二人の著者は、1995年にもう一人別の著者とともに「マッキントッシュによる人文系論文作法」という同様の趣旨の著作を出している。当時においては、彼らが必要とするフランス語やドイツ語をまともに扱えるパソコンはマッキントッシュしかなかったということなのだが、現在は Windows95/98 により日本語 Windows 環境でも独仏語を用いた論文作成ができるようになっている。そこで、新たに Windows ユーザ向けに論文作成過程を紹介したというのが本書誕生の経緯である。

 本書の特徴は、何よりもその実践重視の姿勢にある。したがって、著者の実際の研究現場での情報収集、データ構築、データ加工、そして最終的な論文執筆の各々の場面がひたすら再現されることになる。研究の各局面で、具体的にどのようにパソコンが活用できるのか迷っている読者にとっては、非常に実用的な内容であると言えよう。画面写真も豊富である。その一方で、具体的な実例ばかりなので、読み物としてはそれほど面白いものとは言えない。読み物としては、少々古くなるが黒崎政男『哲学者クロサキのMS-DOSは思考の道具だ』(アスキー、1993年)の方が圧倒的に面白い。実践例としてはさすがにMS-DOSであるからもはや役には立たないだろうが、研究の日常にどのようにパソコンが役立つか、あるいはどのように研究の日常を変えていくのか、という抽象的な議論はまだまだ参考になる。併読すると面白いかも知れない。

 我々はイスラーム世界を研究対象としているが、残念ながら本書の著者陣は独仏語が使えればよしとする分野(言語学・社会学)の研究者である。我々が必要とするアラビア語やペルシア語をどうやって Windows パソコン上で扱うかといった点については、本書は全く参考にならない。しかしながら、Office2000 が発売になりまた Windows2000 も視野に入ってきた現在、Windows 上でもアラビア語やペルシア語を用いつつ情報収集やデータの構築・加工を行うことがそろそろ可能になりつつある。そうした中で、本書などを開いて電子データの利点(再利用可能、検索が容易)を考えつつ、今一度、自分の論文作成過程を見直してみるのもいいだろう。(佐藤健太郎)

戻る

 
 
 
『イスラム技術の歴史』

アフマド・Y・アルハサン、ドナルド・R・ヒル著/
大東文化大学現代アジア研究所監修/多田博一、原隆一、斎藤美津子訳
平凡社、1999年

 近年、日本でもイスラーム世界に関する書物が数多く刊行され、政治史を初めとする多くの分野では我々の知見もかなり深まってきた。しかし、まだまだ我々の知らないことがらは多く残されている。例えば、イスラーム世界の人々が日常の生活において、どのようにして川や井戸から水をくみあげ、どのようにして畑を耕し、あるいはどのようにして糸を紡ぎ機を織ってきたのか、我々はどれほどのことを知っているだろうか。本書はこのようなイスラーム世界の日常生活について、なにがしか我々の理解を助けてくれる貴重な著作である。特に、原題に Islamic Technology: An Illustrated History とあるように、本書に収録された豊富な図版が我々の理解を視覚的に高めてくれる点がありがたい。図版の種類は、考古学的な遺物、手写本に載せられた図、原題の手工業の作業風景やその道具など様々である。これらの図版を眺めているだけでも、我々が知らなかったイスラーム世界の一側面が生き生きと伝わってくる。

 本書で扱われている技術分野はきわめて多岐にわたる。目次からそれを拾うと、「機械工学」、「建築と土木技術」、「軍事技術」、「船舶と航海術」、「化学技術」、「織物、紙、皮革」、「農業と食品技術」、「採鉱と冶金」となっている。中には簡単な紹介に終わっている技術分野もあるが、現在の研究状況を考えれば仕方のないところだろう。

 このようにきわめて興味深い内容を持つ本書だが、残念ながら決して読みやすいものではない。本書の性格上仕方のないことだが、技術用語が頻出するためこの分野に明るくない者にとってはいささか取っつきにくい文章となっている。グロッサリーをつけるなどの工夫がほしかったところである。また、序章とエピローグに特に見られるように、イスラーム世界における技術の盛衰をあまりに安直に宗教としてのイスラームと結びつけている点も気になった。事はそれほど単純ではあるまい。

 ともあれ、類書のない分野である。通読はいささか骨が折れるかも知れないが、拾い読みだけでも今まで知ることのなかったイスラーム世界の一側面に触れられるであろう。(佐藤健太郎)

戻る

 
 
 
The Bukharans: A Dynastic, Diplomatic and Commercial History 1550-1702

Audrey Burton
Curzon Press, Richmond, 1997

 シャイバーン朝期からアシュタルハーン朝期にかけての、ブハラ・ハーン国の歴史を取り扱う大著。「第 1 部 歴史」でハーン国内外の政治史を、「第2部通商」でブハラ人がその担い手となる貿易を記述する。著者は、ブハラ・ハーン国ないしブハラ人を主体的に描き出そうと試み、ロシア、イラン、インドなど周辺地域の史料もさることながら、現地史料をじつに多用している。

 本書の特徴のひとつは、まさにそのおびただしい情報量にある。事実関係がかなり詳細に記述されており、ここから知り得る史実は多い。

 しかし問題点もある。史料に即した記述に偏るあまり、相対的に分析や批判に乏しく、先行研究も蚊帳の外に置かれがちである。また当時のロシア人や西欧人の用語法にてらしてみれば、著者が何をもって「ブハラ人」とするかの基準は、曖昧であったといわざるをえない。

 とはいえ、著者が内陸アジアをひとつの歴史世界として広く見渡し、かつその歴史の動因としての通商を高く評価している点は注目される。本書が全体として中央アジアの躍動感ある歴史像を提示しているのは、その成果といえよう。大航海時代の到来とともに陸上貿易は衰退へと傾いた、というテーゼと対置させながら読んでみるのも、おもしろいかもしれない。(東大・東洋史 木村 暁)

戻る

 
 
 
『ロシア現代史と中央アジア』

木村英亮
有信堂高文社、1999年

 本書においては、旧ソ連連邦内の諸地域とロシアとの関係について歴史的な概観を提示するとともに、現状の分析がなされている。「ロシア現代史と中央アジア」と銘打たれてはいるものの、実際に扱われている範囲は著者の設定する「中央アジア」の枠を超えており、旧ソ連内に居住してきたいくつかの民族をクローズアップしている箇所もある。ソ連・ロシア研究という視点からの近現代中央アジアの概説書であると言えよう。

 本書で提示されているモデルは明快である。特に、中央アジア研究の上で避けて通れない、諸民族のはらむ諸問題については、現代におけるその様子を非常に分かり易く描き出している。また、当該テーマについてまとまった記述のある著作は日本では他に見られない。事実関係の説明部が多いことと、テーマ別の詳細な年表が付加されていることから、工具的な価値もあると言える。

 しかし、イスラームの制度に関する述語の日本語表記はかなり気になった。例えば「カジ」→「カーディー」、「バクフ」→「ワクフ」など、日本語の表記が大方確立されているものはそちらに従ったほうが理解しやすい。ロシア研究の一環という視点で著すにせよ、述語までロシア風に表記する必要は全くない。  いずれにせよ、当該地域の現状を見極め今後の動向を探るために、それらの歴史的背景の再確認を行うという著者の試みは成功していると言えるだろう。(九州大学文学研究科・院 仁田 茜)

戻る

 
 
 
『ペルシア民俗誌』

A. J. ハーンサーリー、サーデグ・ヘダーヤト著/岡田 恵美子、奥西 峻介訳註
平凡社、1998年(東洋文庫)

 平凡社東洋文庫の一冊として出版された本書は、イランの民俗に関する二つの書物『コルムスばあさん』(ハーンサーリー著)と『不思議の国』(サーデグ・ヘダーヤト著)の翻訳版であって、まだまだ日本人にとってなじみの薄いイランの風俗、慣習を知るのに絶好の書である。両書はそれぞれ、17 世紀後半と 20 世紀前半に書かれたものであり、その時点でのイランの民俗事情をわずかでも伝えているものであるが、特に、『コルムスばあさん』の方は、登場人物の五人の女性が、風習や生活の知恵などについて、各自の見解を述べながら、その善し悪しを判断しており、その形式がイスラム世界の法学者達による法判断の場合に比せられており、また、女性が主人公だけあって、その内容も結婚や出産など、イスラム世界を研究する際にあまり表面に現れてこないものが扱われており、女性に関する民俗や文化人類学にとっても参考になりうるのではないかと思われる。さらに、各章の最初に訳者による解説が付されており、理解の手助けになっている。

 一方、『不思議の国』の方は、女性達による生活習慣判断という形式でもなく、20 世紀前半のイランの風習全般について淡々と述べるに留まっており、「ある迷信に対して、この様な解決方法がある」という物がほとんどである。『コルムスばあさん』の後で読むと、少し面白味に欠ける内容であるが、女性のみの風習に関する前者とは異なって、収録されたものの種類は豊富であり、また、「罪深い旅人が自動車に乗ると故障する」といった迷信なども収録されており、20 世紀前半という時代を窺わせる内容も含まれている。

 両書ともイランを中心とするイスラム世界の風俗を理解する一助となろうが、短評筆者としては、民俗学、文化人類学の研究者達がこの書をどの様に利用できるのか、或いはできないのか、ということを知りたいので、そういった方面の方々が一読され、この短評に投稿されることを希望する。(慶應義塾大学文学研究科M1  橋爪 烈)

戻る

 
 


E-mail: bunkentanpyo@hotmail.co.jp