* 文献短評

 
 
 

『刺繍―イラン女性が語る恋愛と結婚』

マルジャン・サトラピ/山岸智子監訳/大野朗子訳
明石書店、2006年

表紙
 本書をタイトル通りに受け取ると「とんだ思い違い」をしてしまう可能性がある。

 本書は確かに、「イラン女性」が語る「恋愛」と「結婚」の話を綴ったものである。「イラン女性」と聞いて、どのような女性を思い浮かべ、彼女たちの恋愛と結婚と聞いて何を想像するのか。それは人それぞれ異なるかもしれない。しかし、本書を開く前に、ここに描かれている壮絶な話の数々を予測できる人は、そう多くない(というかほとんど皆無)ではないかと思われる。

 何がどう壮絶なのか。この点についてはぜひ、ご自身の目で確かめていただきたい。たとえばタイトルにある「刺繍」という言葉。この意味がわかった瞬間、評者は自分の想像力の貧しさに愕然とした。そう、評者はてっきり、「イラン女性」が集まって、「刺繍」をしながら恋愛話に花を咲かす、という図を予想していたのだ。

 イラン生まれの著者マルジャン・サトラピは、現在パリでグラフィック・アーティストとして活躍中で、近年では、自伝的作品『ペルセポリス―イランの少女マルジ』(2005年バジリコより邦訳あり)が世界的ベストセラーとなるなど、もっとも名の知られた「イラン女性」の一人である。『刺繍』に登場するのは、マルジー(マルジャンの愛称)の祖母のもとに集まった富裕な女性たち9人である。マルジーとアズィー(結婚詐欺に遭い傷心の女性)とその妹はおそらく同世代で、もっとも若く、その他はマルジーの母親や祖母と同じ世代の女性たちである。

 ホームパーティの後、男たちが昼寝をしている合間に後片付けを終えた女性たちは、サモワールで入れたお茶を飲みながら、それぞれの経験を語る。内容はアヘンに始まり、幼年結婚、婚前交渉による処女膜喪失、離婚、愛人生活、豊胸に整形手術など、通常、声をひそめたり、眉をひそめたり、「悲劇」と呼ばれたり、「秘密」とされる話ばかりである。しかし、ここに集まった女性は、ときに自慢げに、ときに同情を買い、笑いを取るための「ネタ」としてそれらを語る。ダイナミックな著者のグラフィックに飲み込まれ、効果的に配されたセリフ(そして読みやすい和訳)に引き寄せられるうちに、読者は、いつの間にか自分自身が彼女たちの輪に入り、一緒に大笑いしているのに気づくはずである。

 本書の終わりに、午睡から目覚めたマルジーの祖父が女たちの前にやってくるという場面がある。「なんで起きてきたの、戻って寝てちょうだい」、と彼はあえなく追い返されてしまうが、幸いなことに本書自体は男性読者を拒むものではない。というのも、著者が描きたかったのは「ベールの向こう側」の禁断の世界や、一部の人だけが共有できる世界などではなかったと評者には思われるからである。どの地域のどの人々の日常にも、「悲劇」があり、その裏には「笑い」が潜んでいる。本書はそのことを思い出させてくれる。 (東京大学博士課程 後藤絵美)

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『ヨーロッパの祝祭日の謎を解く』

アンソニー・F・アヴェニ著/勝貴子訳
創元社、2006年

表紙
 日本人は欧米文化が大好きだ。クリスマスという欧米文化を輸入し、キリスト教徒でもないくせにクリスマスを祝う。文化的にも経済的にも、いまやクリスマスは日本最大の国民的行事だ。しかし同時に少なからぬ日本人が、この日本におけるクリスマスの狂乱に「?」という思いを抱いているのではないだろうか。キリスト教徒でもない人間がどうしてキリストの聖誕祭を祝うのか? いや、そもそもキリストの誕生日は12月25日ではないだろう。大体日本のクリスマスはもはや宗教的意味など消え去っているではないか。クリスマス直前の時期そんなことを考えていたら、本書に行き当たった。

 著者アヴェニはアメリカの大学で天文学と社会・人類学の教授を務める人物で、天文学と考古学を結びつける考古天文学という学問の推進者として知られているそうである。本書は「ヨーロッパの祝祭日」と題されてはいるが、実際には現代のアメリカで広く祝われるクリスマスやハロウィーン、イースターなどの祝日について、その起源や歴史的変遷、その祝日が持つ意味や象徴性について解説している。ただ祝日の起源について説明するものの、アプローチのしかたは歴史学的というよりは、著者が専門とする古代天文学・文化人類学的視点に拠っている。

 著者は、人類が1年間のうちどの日を祝祭日として定めてきたかという問題に対し、季節の変化すなわち太陽の動きに大きな意味を与えている。著者の解説によれば、現在のアメリカの大部分の祝祭日は、春分(3月20日ごろ)、夏至(6月21日ごろ)、秋分(9月23日ごろ)、冬至(12月21日ごろ)の四季の基準点と、その中間点であり古代ケルト暦の基準点であった2月、5月、8月、11月の初日に何らかの関わりを持っているということである。例えばクリスマスも、ローマ帝国において12月25日の冬至の日が新しく生まれ変わる太陽の聖誕祭として定められていたものを、後にキリスト教がキリストの聖誕祭として取り入れたのが起源であるという。

 著者は本書において、キリスト教徒がローマの祝祭日を取り入れそれに新しい意味を与えたように、人間は常にそのときどきの文化的・心理的要求に従い祝祭日を改定し続けていくのだと主張している。自分たちが慣習として受け継いできたものの根底にあるものを知ることは重要であるとしつつも、祝祭日が変化していくことを否定はしない。著者の主張によるならば、現在の日本におけるクリスマスの風習も、奇妙がる必要は全くないのであろう。祝祭日とは常に変化し続けるものであり、「クリスマスはもともとキリスト教徒の祝日なんだから」と、祝祭日の「もともと」を問うほうがナンセンスと言えるのかもしれない。

 今日ではすっかり「恋人たちのためのイベント」としての感が強くなっている日本のクリスマスだが、年配の知人に聞いたところ、一昔前まではクリスマスは家族うちで楽しむものであったという。(三角帽子をかぶったお父さんがクリスマスケーキの箱を持って帰ってくるというような)日本の中においても、クリスマスという祝祭日の意味は変化し続けているということなのであろう。今後のクリスマスの行方が楽しみである。(神戸大学大学院文化学研究科 博士課程 岡本恵)

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『シーア派―台頭するイスラーム少数派』

桜井啓子
中央公論新社、2006年 (中公新書)

表紙
 イラン、イラク、シリア、レバノンなどをめぐって騒がしい近年、「シーア派三日月地帯」なる単語が大人気のようだ。米国の外交評議会とかが好んで使うので、スノッブな連中がさもよく知っているふうに流用するのだが、よくよく考えてみると実体性に乏しく、現状分析ではほとんど使い物にならない概念である。しかしどこの業界でもそうだが、いかにもという決まり文句をエライ人が使うだけで、正しさがあるかのように信じられる。騒がれる割にはよく内実が知られていない「シーア派」というのは、もっとエラクなりたいエライ人の格好の餌食であろう。

 そんな時、本書が刊行された。巻末で筆者は、「『シーア派の脅威』を強調する風潮は、シーア派内部の多様性とダイナミズムを覆い隠す作用を持っていることを忘れてはならない」と結んでいる。そして「あとがき」では、「日増しに重要性をますイ スラームだが、イスラームの名の下に統一された世界が存在しているわけではない」とも述べている。統一という単語が毎日のように体制プロパガンダで叫ばれつつ、実際は何一つ統一されていない「多様性の宇宙」ともいえるイラン社会をフィールドと してきた筆者の想いが、本書の基底をなしている。

 新書といっても、シーア派が関わる国々の近現代史をきっちり踏まえ、また数多のシーア派組織や人物を網羅しており、平易な文体だが内容は濃い。簡単・短時間に全容を知りたいだけのエライ人(及びその予備軍)には不向きだが、シーア派ヒストリーをきちんと学びたい人には、格好の一書だと思う。

 余談だが評者は、筆者をコメンテーターにして、本書に関わる内容の発表を過去にしたことがある。本書を読んで、あれは恥ずかしい発表だったなあと猛省してしまった。桜井さん、ごめんなさい。もっと勉強します。佐藤秀信(法務省)

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『シェバの女王―伝説の変容と歴史との交錯』

蔀勇造
山川出版社、2006年(ヒストリア022)

 シェバ(シバ)の女王とはもちろん、例の、ソロモンの器量を試すべくラクダに乗ってはるばるエルサレムにやってきたものの、出す謎を全て易々と解かれてしまい、結局ソロモンの徳を讃えて去っていったという、あの「引き立て役」の女性である。そして、この女性が後世の様々な立場の人々によってどのように語られてきたかを説き明かし、そのような語りの背景を解き明かすのが、本書の主な内容である。

 「ユダヤ教世界」、「イスラーム世界」、「キリスト教世界」、そしてエチオピア (これはボブ・マーレイにもつながる!)における語りと、そのような語りが生み出された同時代的背景、そしてそれらの語りと古代南アラビア史上の史実との関連が、楽しげに、マニアックに、そして実はかなり重厚に書き込まれている。読みやすく、かつ「伝説」の位置づけなど、「歴史学」を考えさせてくれる本と言えよう。特に、エチオピアでの伝説の独自の展開は、素材自体からして興味深く、内容に触れずにこの短評を止めるのが難しいほどである。森本一夫(東京大学東洋文化研究所)

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『オマル・ハイヤーム ルバイヤート 』

オマル・ハイヤーム著/陳舜臣訳・解説
集英社、2004年

表紙
 本書は、オマル・ハイヤーム(西暦1131年没)による、いわゆる「ルバイヤート」の新訳である。『ルバイヤート』は、日本におけるペルシア文学随一のベストセラーであり、抄訳、重訳併せると実に20余の翻訳が存在するほか、最も広く読まれている小川亮作(訳)『ルバイヤート』(岩波文庫、初版1948年12月)は、2004年末までに63刷を重ねている。

 本書『オマル・ハイヤーム ルバイヤート』は、陳舜臣による原語訳であり、オクスフォード・オウセレイ・コレクション本、ラホール本を中心とする諸写本に基づき、125のルバーイー(四行詩)を訳出している。さらに、個々の作品について写本の異同にまで言及した註解、および、オマル・ハイヤームと彼の生きた時代についての詳しい解説を記している。

 訳者である陳は、中国や新彊、モンゴル等を舞台とした歴史小説やミステリー作品でも知られるが、青年時代には大阪外国語大学のペルシア語学科に学び、研究の道を志していた。しかし、台湾出身であったため、日本の敗戦によって日本国籍を失った陳は、国立大学に職を得ることを断念し、やがて作家への道を進んだという。戦火の下を逃げまどう彼のポケットに、ルバイヤート紙片がねじこまれていたという回想に、平和な時代の学生である我々は驚かされる。戦時中の死生観を反映してか、あるいは、20代の若い感受性のゆえか、陳のルバイヤート訳詩篇は、端正な文語訳に繊細な抒情性を湛えたものとなっており、ペルシア語原詩のもつ奔放さを伝える小川訳とは別の味わいを見せている。以下に数遍を引こう。

(47)
ハイヤームよ 汝(なれ)美酒の崇拝者なりせば楽しからん
月の如き乙女と共にあらば楽しからん
終には汝も消ゆるべきものなれど
いまだ消えざるを思わば楽しからん

(23)
わが親しき友すべて去れり
相つぎて死神の足下にひれ伏し
生命の酒宴に招かれて
われら行かざるに杯めぐり 彼等すでに酔えり

(32)
誰か永遠の秘儀を解き得し
誰か自然の運命の外に一歩を印し得し
われ門弟より老師まで見渡せど
母より生まれし人の子 あわれ力空(むな)し

 巻末の解説は、70頁にわたる詳細なものであり、本書の約半分の頁を占めている。彼の解説に異を唱えたい箇所がないわけではない(ハイヤームの文学史的位置づけや、よく知られる「三人の学友」伝説[ニザーム・ル・ムルク、オマル・ハイヤーム、暗殺者教団のハサン・サッバーフが朋友であったとする逸話] を歴史的実証性がないとしながらも、これに固執している点など)。しかし、訳者の強い憧憬と思い入れによって、人間オマル・ハイヤームがはっきりとした輪郭をもって描き出されることにより、読者は「ルバイヤート」の世界へと引き込まれていく。琴線に触れる訳詩篇と併せ、本書は、「ルバイヤート」浪漫を結実させた書であると言えよう。

 なお、近年のペルシア文学研究では、『ルバイヤート』詩篇の大半が、アッタール(西暦1121年頃没)の作ではないかとの説も提起されていることにも触れておきたい(*)。  前田君江(東京外国語大学博士課程修了)

(*)これについては、藤井守男氏が『イスラーム神秘主義聖者列伝』(ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール著、藤井守男訳、国書刊行会、1998)の解説の中で、テヘラン大学シャフィーイー・キャドキャニー教授の研究成果として詳しく述べている。

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『 こうすれば話せるアラビア語(CD付) 』

奴田原睦明・榮谷温子
朝日出版社、2003
 フスハー会話をはじめて半年、なかなか話せるようにならず悶々としていた評者に、本書は一筋の光となった。とは大げさだが、本書は今まで見た中でもっとも工夫されたアラビア語会話教本の一つである。その内容は、会話、応用(「こう答えるとこうなる!」)、文法説明、使える表現、発展(「現地会話に馴染もう!!」)の順で構成されており、二課に一回練習問題がある。付録のCDにはそれらの大部分が収録されている。また、一課ごとに「アラブ紙上体験」として写真付きで町や文化が紹介され、もう少し詳しいコラムもついている。一応文字や文法は簡単に説明されているものの、文法事項を一通り学び終えた学習者が復習を兼ねて取り組むのにちょうどいいレベルであろう。

 では、具体的に本書にちりばめられた「工夫」の数々を見ていきたい。

 まず、登場人物が多いことである。主役は貿易会社勤務の田中さん(47歳)、同僚のムスタファさん(50)とそれぞれの家族である。つまり、これまでのように一人の学生による単発的な出会いや活動の中での会話だけでなく、オフィスでの会話、奥さんや子供同士の会話、エジプト人の娘とその婚約者との会話など、実に幅広く紹介されているのである。人数が多ければシチュエーションも多く、ドラマを見ているようで楽しい。家の中で一人CDを聞きながらぶつぶつと文章を反復しても、今までのような孤独感がない。

 次に応用の「こう答えるとこうなる!」である。たとえば「アパートは気に入りましたか?」と聞かれて、「とっても気に入ったわ」と答えるばかりではあるまい。「いいえ、全然!私、とっても怒ってるの」と答えたい場合もあるだろう、という配慮から、ここでは一つの質問への答えのバリエーション、あるいは一つの表現のバリエーションが紹介されている。

 「現地会話に馴染もう!!」は新鮮である。これまで、会話教本といえば外国人とアラブ人の会話だけで構成されることがほとんどであった。しかし、ここではネイティブ同士の会話も紹介されている。その中では母親が「勉強しなさい」と息子を叱る場面や、婚約者が遊びに来たときのエジプト人母娘の応対などを見ることができる。

 練習問題は穴埋めや和訳・アラビア語訳である。その中の会話もCDに収録されていること、問題の解答がおなじ見開きにあることは、ささいだが学習者の意欲を殺がない重要なポイントであろう。

 惜しむべきは本書全体の楽しさに比べ、CDの録音が淡々としていることくらいだろうか。ぜひとも続き(上級編)を出してほしいものである。(東京大学博士課程 後藤絵美)

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Upper Egypt: Life along the Nile

Nicholas S. Hopkins編
Moesgård Museum, Denmark. 2003
一人のサイーディ(上エジプト人)が野良仕事をしていると、近所の男たちがやってきて言った。「おまえの奥さん、おまえのイトコと一緒にいたぞ。」それを聞いたサイーディは怒り狂い、ナイフを握りしめて、自宅へと駆けていった。ところが、妻と一緒にいたのは彼のイトコではなく見知らぬ男だった。サイーディはすぐさま男たちのところに走って戻り、こう言った。「おぃ、あれはオレのイトコじゃなかったぞ。」(p162)
本書は、デンマークのモースゴー博物館において2003年4月から一年間、特別展示された『The Nile − Jewel of Egypt』の為に出版された解説書である。この意味においては正確には学術書・研究書の類に含まれないが、内容の良さゆえにこの場を借りて紹介したい。

 題名が示すように、本書がとりあつかうのは、エジプトのなかでも上エジプトとよばれる地域、「通常、カイロから南に下ってスーダンとの国境までの耕作可能なナイル渓谷」(p9)をさす。ここに含まれる主要な都市は、ベニ・スウィーフ、ミニヤ、アスユート、ソハーグ、ケナ、ルクソール、アスワンである。アスユート以北までを中エジプトあるいは「Sa‘id al-Jawwani」と、以南を上エジプトあるいは「Sa‘id al-Barrani」とさらに区別することもある。

 距離にして860kmに及ぶこの細長い渓谷地に、エジプトの全人口の三分の一が居住している。大多数はスンナ派ムスリムであるが、全人口の6−10%といわれるキリスト教徒(9割以上がコプト・キリスト教徒)の約半数が上エジプトに散住している。その他にも数は少ないが、ヌビア人と呼ばれる独特の言語をもつ集団がアスワン周辺に住んでいる。

 上エジプトの特殊性を説明する要素は数多く、サトウキビ栽培(しばしば下エジプトの綿花栽培と比較される)、「伝統的」社会組織、「部族」、「血讐」、「後進性」、保守性、独特の方言、民間信仰、移民労働、サイーディと呼ばれる田舎の頑固親父パーソナリティなど枚挙に暇がない。それでも尚、本書の編集者−彼自身80年代初頭にアスユート近郊の農村において人類学的調査を行い、その後も一貫してエジプトの農業と社会変化に関心を向け続けている−ニコラス・ホプキンスは確信をもってこう語る。「上エジプトは明らかに固有の特徴とパーソナリティをもっているのだが、同時により広範なエジプト社会の一部であり、またさらにアラブ社会の一部でもある。上エジプトは、ある面において非常に伝統的であるが、また別の面では急速に変化している。」(p21)つまり、本書が提起しているのは、上エジプトから透かして見えるエジプト社会全体であり、その中で現在起こっている変化と連続性の状況である。

 ただし本書が提示するのは上エジプトのより「人類学的」側面であり、収録されている論稿の著者の大半が人類学者である。本書の人類学的視点は、トピック選択に如実に現れている。家族・親族関係、結婚、地元有力者による紛争処理、「部族」組織と政治、灌漑と農業における変化と連続、宗教生活や儀礼(コプト・キリスト教、イスラーム)、民間信仰やスーフィといった社会組織、文化・慣習、宗教など、人類学が伝統的に専門としてきたトピックが本書の大半を占める。もっとも特徴的なのは、1927年に人類学者ウィニィフレッド・ブラックマンによって書かれた上エジプトに関する初の本格的な人類学的研究書である『上エジプトの農民』の分析および現在に至るまでの人類学的調査の潮流をまとめたホプキンスの論稿であろう。この意味で、本書はエジプトの人類学的研究のよい入門書といえるのだが、さらに特筆すべきは巻末に収められたビブリオグラフィである。各トピックに関連した参考文献が数多くまた正確に記載されているため、本書は単なる入門書にとどまらず、読者の関心をさらに先へと導く指南書となりうるだろう。

*参考文献*
Blackman, Winifred S. (1927). The Fellahin of Upper Egypt. London: Harrap. Reprinted 2000, American University in Cairo Press.
Hopkins, Nicholas S. (1987). Agrarian Transformation in Rural Egypt. Boulder and London: Westview Special Studies in Social, Political, and Economic Development.
Hopkins, Nicholas S. et al. (1988). Participation and Community in the Egyptian New Lands: The Case of South Tahrir. Cairo Papers in Social Science. 11(1).
Hopkins, Nicholas S. & Westergaard, Kirsten. (Eds.). (1998). Directions of Change in Rural Egypt. Cairo: The American University in Cairo Press.
(カイロ・アメリカン大学 竹村和朗)

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『ヨーロッパとイスラーム−共生は可能か』

内藤正典
岩波新書、2004年
「ムスリム」という人間類型を現実世界で語ることは可能なのか?

 本書は、「スカーフ」と「原理主義」という現代イスラームをとりまく言説状況をもっとも端的に表わす二つの要素を手がかりに、ヨーロッパにおける移民および二世ムスリムの世界、そしてホスト社会との軋轢を描き出したものである。一読後の感想であるが、面白いとしかいいようがない。ヨーロッパのことなど対岸の火事(実際に「こちら」からみれば対岸だけど…)だと思っている中東研究者諸兄、とりわけ中東一腰が重い大国エジプトにいて、ひがなナイル川のことばかり考えてしまうエジプト研究の徒には必読の書だろう。

 歴史的に交流を続けてきた中東イスラーム世界とヨーロッパ世界だが、現代においてはヨーロッパ諸国にムスリム移民労働者が大量に流入しており、そこで「ホスト社会と移民」に起因する軋轢からだけではなく、「文明間の衝突」的観点からの不満が噴出し始めている。現在起きている言説・現実レベルの衝突や紛争(スカーフ問題などもこれに含まれる)は、何に起因し、如何に発展してきたのか? イスラームという宗教と現代西洋文明との関係に内在するものとして、すなわち起こるべくして起こる/起こったものなのか? あるいは小さな違いが大きな亀裂=問題へと仕立てられているのか? 著者はこれを探るべく、ドイツ、オランダ、フランスの三国におけるムスリム移民とホスト社会=国家の関係を具体的事象を挙げつつ考察する。詳細は省略するが、著者が観察した各国状況を簡単にまとめてみよう。

 ドイツ(第一章)ではトルコ系移民労働者に対する法的・精神的疎外が解消されず、ホスト社会からの移民排斥の論調・圧力は止まない。その中で、トルコ系移民および二世たちの意識はドイツへの統合よりイスラーム信仰へと向かっていく。オランダ(第二章)では、リベラリズムという名の棲み分け=相互不干渉の原理が働き、トルコ・アラブ・アジア系ムスリム移民はイスラームという宗教文化を認められているが、拡大が止まないイスラーム勢力に抑制をかけようとする動きもみられるようになってきた。「国家と教会の絶対的分離」を意味するライシテ(世俗主義)を国家原理とするフランス(第三章)では、公教育におけるスカーフ着用の是非が長い議論を経て、2004年初頭、その禁止がついに法制化された。左派右派ともに反イスラームでは一致しているが、それぞれの論理・思惑は異なり、その政治的駆け引きの中でスカーフ問題は揺れ動いてきた。

 第三章の終わりで著者は、フランスにおけるスカーフ問題は、キリスト教対イスラームという宗教対立に起因するのではなく、イスラームが衝突している(させられている)のは、キリスト教という宗教を克服した後で生まれた近代西洋文明なのだ、と主張する。この文明間の価値観の相違、というところから次第に著者のいうことが大きくなってきたように評者は感じた。ヨーロッパ三国を斬って落とした後、返す刀で著者は「ヨーロッパ的個人とイスラーム的個人」あるいは「ムスリム対西欧世界」論を展開しはじめる(第四章)。なにやら、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論や、バーナード・ルイスの「イスラームの没落」論と同じにおいがする。なぜか?

 第四章に入ると、著者はしきりに「ムスリムは〜である」という型を繰り返すようになる。「ムスリムは〜と思う、〜と信じている、〜を望んでいる、〜に満足する」などなど。さらには「覚醒を経たムスリムは、社会の進歩を促す人間の力を認めない」(p.197)から、イスラームは、社会的進歩の観念をその基礎とする近代西洋文明とは相容れないのだ、と判ずる。打開策として、ヨーロッパには自らの考え方を自覚することからはじめ、イスラーム世界もまた彼らの考え方が西欧社会には受け入れられないと自覚することからはじめなければならない、と提案する。評者は、この章をわかったようなわからないような、不確かな心持ちで読み終えた。著者は最初の問いに方向性の異なる二つの答えを出してしまったようだ。一方で、小さな価値観の違いが、社会的状況の変化の中で大きな亀裂へと変化していく様、これが三国の例に見出された「構造的」原因であるといい、他方でイスラームには近代西洋文明と不可避的に衝突する論理が内在しているという。この後者の論展開は、著者が「ムスリム」を主語とすることで、イスラームの原理を100%体現した仮想人格を創出したことに拠るものであり、いわば純粋な理念型としてのムスリムと進歩的西洋人の論理衝突を論じたものである。これは著者が創り出してしまった、行き過ぎた観念論だと評者は判断する。

 著者が案じるように、ムスリムという理念型への昇華が、現代ますます促進される状況にあるというのはわかるが、現実はもっとずっと複雑である。研究者が現実世界に如何にコミットしていくかが問われる時代である。その中で、避けられる悲劇的未来を避けようと説く著者の姿勢には深く感銘を受けるが、それゆえに具体的事象を論じた前三章に比べ、最終章の議論は抽象的すぎて説得力に欠けるものになってしまっているようである。(カイロ・アメリカン大学人類学科修士課程在籍・竹村和朗)

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『聖典「クルアーン」の思想―イスラームの世界観』

大川玲子
講談社、2004年(講談社現代新書)
表紙
 「クルアーン」の表現に徹底的にこだわった一冊。そのこだわり、情熱のほどは、クルアーンの章句を既存の翻訳書から引用することなく、すべて著者自ら訳し直したという姿勢からもうかがえよう。

 イスラームの基本的な教義をクルアーン(コーラン)の文言を解説しながら説明する前半部は、日頃イスラームのあれやこれやに親しむ読書子にとっては、やや「概説的」すぎると感じられるかも知れない。しかし本書の真骨頂は、著者の博士論文の成果が生かされた、第三章「『天の書』とクルアーン」であろう。ここでは、クルアーンの原型である「天の書」がいつどのように創造されたのかという問題や、神の定めた運命と人間の自由意志との関わりなど、クルアーンには具体的に述べられていない事柄が、実際にどのように解釈されていたかが、ハディース集やタフシールを用いて分析される。神学上の諸問題には、クルアーンの章句に一見矛盾するような議論もしばしばあるが、ウラマーたちがこれら諸問題にどう論理的整合性を持たせてきたのか(あるいは「どうこじつけてきたのか?」)、具体的に示されている点が興味深い。ただしこれらの解釈は、実際には一部のエリート層(主にマムルーク朝期のスンナ派ウラマー)による解釈にすぎない。では民衆層、あるいは「アラブ人」一般の運命観・世界観とはどのようなものか、という問いについては、性急に答えを出すべきではないだろう。少なくとも本書で紹介される(pp.147-8)サニア・ハマディ氏のような見解は、いささか一面的にすぎるように思える。

 また、日本語訳クルアーンの歴史をたどった第四章は、本書では独立した価値を持つ。特に、日本政府の対外政策にとってイスラーム研究が日に日に重要性を増している今日、「『大東亜』の共栄共存というまなざしは敗戦によって断絶したが、それらは日本とイスラームの関係史の重い序章として、批判的に再検討されねばならないのではないだろうか。」(p.205)との一文は、ずしりと重い。(東京都立大学非常勤講師 中町信孝)

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アフガニスタン文献探索報告
 10月末から二週間ほど、ターリバーンによるヴェールに関する布告資料を探し求めてカーブル市内を徘徊した結果、アフガニスタンの図書事情がぼんやりと見えてきた。事前に何の情報も得ていなかった上、ラマザーン月中だったため、実際に施設等に入り、本や資料を眺めることができたのは本当に短い時間だけだった。不十分な情報であることを先にお詫びした上で、文献短評の場を借りてわかったことをご報告させていただきたい。

<図書事情>
見聞した限り、現在のカーブル市内の出版・資料所蔵状況は以下の通りである。

(1)書店
カーブル市内には本屋が山ほどある。とくにアフガニスタン関係の洋書を豊富にそろえているのがIntercontinental Hotel一階の書店と通称「フラワーストリート」の入口にある書店であろう。古いものから新しいものまで多種多様な品揃えで、他ではなかなか手に入らない書籍を発見することもある。ただし、明らかに海賊版と思われるものが多く、印刷・紙質があまり良くない。その代わり、定価よりも安く入手することができる。また、バーザール付近にはイランやパキスタンで出版されたダリー語、パシュトー語の出版物を扱う本屋が多い。Chaharrah-e Sedaratの近辺に密集している出版社の一部は、独自の印刷・出版を再開しており、その中には、とくにアフガニスタン近現代史を扱ったものが多く見受けられた。
2)ナショナル・アーカイブ(Arshif Melli)
アフガニスタン歴史資料館。書籍、ミニアチュール、15世紀以降の文書のコピー(原本は未公開)、歴代シャーとその家族の写真等を展示している。基本的にザーヒル・シャーまでの資料。品目別目録(Fehrest)があるが、目録に収録されていない所蔵品も多く、整理が待たれる。
(3)公共図書館(Ketabkhane-ye 'Amme)
市の中心部にある。とくに1930〜40年代以降の主要な新聞・雑誌のバックナンバーが閲覧できるのは便利である。ただし、完全にそろっているわけではなく、例えば、ターリバーン時代のうち1996年〜1999年のものは残っていなかった。
(4)省庁付図書館
省庁の中には図書館や本屋を併設しているところがある。評者は外務省(Wezarat-e Khareje)と司法省(Wezarat-e 'Adliye)の図書館を訪れてみた。どちらも規模は小さい。また、外務省の方は整理中であるらしく、ほとんど本を見ることができなかった。司法省は図書館というよりも本屋となっていて、過去の法令集その他の文献を原価で手に入れることができる。
(5)新聞社
現在アフガニスタンで出版されている日刊紙はAnis(パシュトー語とダリー語)、Arman(パシュトー語とダリー語)、Heiwan(パシュトー語)、The Kabul Times(英語)の四紙である。週刊・月刊紙は数多い。
<戦利品短評>
 他の中東諸国以上に外国人女性の一人歩きが好奇の目で見られる国での資料収集はまさに戦いである。カーブル市内全体の傾向として、女性の服装は薄く短くなりつつあるが、嫌がらせを極力避けるため、評者の服装は滞在中しだいに厚く長くなっていった。しかし、いい出会いも多く、人々から得た情報をもとに進んでいくうちに、いくつか得がたい資料を持ち帰ることができた。
(1)法令集(Jaride-ye Rasmi)
帰国前日、ようやくターリバーン時代に出版された法令集を司法省でそろえて購入することができた(写真1)。1999年から2001年までのものであるが、その中には行政、教育、商業活動等に関する法令とともに、女性が顔を露わして外出することの禁止、男性が髭を短くすることの禁止、凧揚げの禁止など悪名高い法令も含まれている。どの頁も縦に二つに分けられており、右にパシュトー語、左にダリー語が書かれている。また、司法省の書店は、法令集として印刷される前段階の、一枚紙に書かれた法令文書のコピーも販売していた。こちらはパシュトー語で書かれており、文書末にはオマル師のサインが入っている。司法省の係の人に文書no.1から順に見せてもらいたいとお願いしたが、整理状態が悪く、すべてがそろっているかさえ分からないようであった。仕方なく、手近にあった数枚のみを購入した(no.70, 104, 113, 154等(写真2)) 。
(2)憲法草案(Qanun-e Asasi)
カーブル滞在中の2003年11月3日、アフガニスタン憲法委員会による憲法草案が発表された。この草案は12月に行なわれる予定の憲法ロヤジルガでのたたき台となるもので、それまでに国民の関心と審判・審議を得るために、その内容は120 頁にものぼる立派なパンフレットとして出版された(写真3)。草案自体は(1)の法令集と同様、頁の右側にパシュトー語、左側にダリー語が記されている。第一条「アフガニスタンはイスラーム共和国家であり、独立国家であり、一体であり、分離しえないものである」で始り、続いて「アフガニスタンの宗教は聖なるイスラームである」(第二条)、「アフガニスタンにおいて聖なるイスラームと本憲法に記された事柄に反するような法は効力を持たない」(第三条)など、本草案はイスラーム色の強いものとなっているように見受けられる。評者が話をしただけでも、全体の内容としては賛成だが、この「イスラーム」という用語の多用に違和感や危惧を感じる、と漏らす人が多かった。この点については、選挙やロヤジルガ等における今後の展開が見ものであろう。
(3)Afghanistan Constitution II, Music and Views of the Afghan People on Elections, Loya Jirgas and the Constitutional Process in the Country写真4
隣の部屋に泊まっていたことがきっかけで話をするようになり、評者に(2)のパンフレットを譲ってくれたのは、シルクロード-ラジオのジョン・バット氏である。その彼が、子どもたちから兵士、知識人、女性、老人などあらゆる層の「声」を収集し、編纂したのがこのテープである。国の将来に対する人々の希望に満ちた、あるいは、ときにイラついたような、強い「声」を聞いていると、道で、事務所で、タクシーの中で会話を交わしたいろいろな人々のことが思い出される。彼らを目の前にして、日本の現状から多くの恩恵を受けつつも、自国のことに関して無知・無関心な自分を恥じたものである。
 結局、探していたターリバーンによる布告資料のすべてを見つけることはできなかった。しかし、今回の旅程でもっと広い意味でのアフガニスタンとその歴史の一端が見えてきたように思う。(東京大学大学院総合文化研究科 後藤絵美)

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