日本中東学会

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日本中東学会第28回公開講演会「日本と中東――歴史的・文化的関係の再発見」が開催されました。

2022年11月26日(土)午後、日本中東学会第28回公開講演会が開催されました。以下、報告文を掲載しましたのでご覧ください。

当日のプログラムはこちら
(リンク:http://www.james1985.org/modules/meetings/index.php?content_id=3

報告1

2022年11月26日(土)に日本中東学会第28回公開講演会「日本と中東——歴史的・文化的関係の再発見」が、会場(日本大学文理学部)及びZoomウェビナーの併用によるハイブリッド形式で開催された。明治時代以降、日本と中東は、直接的な関係を築き上げ始め、戦前・戦中には、日本が回教政策を通じて中東と良くも悪くも主体的に関わってきた。本講演会では、回教政策の破綻後に失われていったと言われがちな日本と中東との主体的な関係や問題点もはらむ文化的関係の知られざる側面を、4人の講演者が各自専門とする地域や分野の歴史・文化から「再発見」することが企図された。以下、当日行われた講演の内容について簡単に振り返る。

鈴木啓之氏の「1970年代における連帯運動と訪日パレスチナ人——現代史におけるパレスチナ問題の射程」では、パレスチナと日本との関係について、転換点とされる1970年代におけるパレスチナ人のパレスチナ問題の発信活動、日本社会の関わりや認識のありようを軸に解説された。パレスチナ人の武装闘争に対する日本の関わりとして、革命の連帯と銘打った日本赤軍による参加が挙げられた。このような出来事は日本とパレスチナとの関係に強い印象を与えたが、その後の動きを決定づけるものとはならなかったことが指摘された。一方、アジア卓球大会へのパレスチナ選手団の参加がPLO東京事務所開設の前段階にあったこと、当時PLO在レバノン事務所長のアル=フートやPLO政治局長のカッドゥーミの来日といった、パレスチナと日本との武装闘争以外の関わりが紹介された。さらに、カタール政府高官として来日したサイード・ミスハールが、神戸製鋼のカタールでの事業に関与していたことは、パレスチナ問題の中東全域における広がりを考える上でも非常に示唆的であると論じられた。日本のメディア記事や研究者の見解などを踏まえ、当時のパレスチナ人の活動実態とそれへの日本の関わりを包括的に取り上げた本報告は、日本と中東との関係を捉えるにあたり重要な視座となる内容であった。

長谷部圭彦氏の「大統領の畑を耕し、トルコ人と絹を織る——大谷光瑞によるトルコ初の日本資本」では、建国直後のトルコ共和国と日本の関わりについて、大谷光瑞によるトルコへの投資と、現地の著名人との共同経営から解説された。ブルサにおける農場計画は実現されなかったものの、光瑞が投資先としてのトルコに言及していたのは、トルコ共和国の成立からわずか3ヶ月後であったこと、光瑞の事業は、大阪商業会議所および外務省との協力の中で取り組まれたことが、特徴として挙げられた。ブルサ農場計画が流れた後に実現されたアンカラの農場経営では、当時大統領であったアタテュルク自身が経営する農場の一部が提供され、またトルコ勧業銀行から出資を受けていた。当時のトルコ勧業銀行の頭取は、後の第3代大統領ジェラル・バヤルであったことから、結果として光瑞は、二人の大統領と農場経営を行っていたことになる。しかし、日本の回教政策への危機感などにより、アンカラでの農場経営は終わりを迎えた。その後、光瑞は、現地の工業奨励法に基づく免税許可を得て、ブルサで絹布工場を経営するも、同工場の操業は、紆余曲折を経て1932年に停止された。これらの事業は、当時の日本が主体的に中東と関わりを持つに至る先駆けとして、日本と中東の歴史的関係に対する聴講者の興味・関心を喚起した。

休憩をはさんで行われた後半の講演は、日本におけるペルシャ陶器への関心の高まりとクルアーン翻訳における問題から、中東との関係を「再発見」するものであった。

神田惟氏の「1950年代〜80年代の日本における『ペルシャ』陶器の収集・展示・出版」では、なぜ当時日本で「ペルシャ」陶器に対する関心が高まったのか、その文化的・社会的な背景を明らかにすることが目的とされた。はじめに、「ペルシャ」古美術品に対する大衆の関心の高まりの契機として、東大イラン・イラク遺跡調査団による調査に加え、イランと日本との間で文化協定と経済技術協力協定が結ばれた1958年以降、正倉院御物の一部がイラン(ペルシャ)製であることが殊更強調される傾向にあったこと等が挙げられた。次に、「ペルシャ」陶器のコレクター層や入手経路ついて、戦前(1920〜30年代)と戦後(1950〜80年代)の比較が提示された。戦前と比べて、戦後ではコレクター層の裾野が拡大したこと、また日本人の好みのフィルターを通じて現地での収集が可能となったことが指摘された。神田氏がとくに注目したのは、古美術商が現地で購入し、学者が産地・年代同定を行い、画家が古美術商から買うという三者関係である。この関係性は「ペルシャ」陶器そのものや、それを描いた静物画が人々の目に触れるに至った経緯にも関わるものであった。また、ニーシャープールから得られたとされる陶器が「民芸風」タイプであり、日本人の好みに合致していたこと、さらに、いわゆる「ペルシャ三彩」のデザインが唐三彩とどこか繋がっていることを想起させるものであったことからも、日本における「ペルシャ陶器」への関心の背景を読み取ることができると氏は指摘した。こうした日本と中東との主体的な文化的関係の「再発見」は、どこか地理的には遠い中東の文化に対する親しみを抱かせるものであった。

ハガグ・ラナ氏の「クルアーンはなぜ翻訳できないか——クルアーンの日本語訳を例にして」では、日本で初めて口語訳された井筒俊彦訳と日本語を理解するムスリムに向けられた三田了一訳とを比較し、それぞれが異なる読者を想定していることをふまえて、クルアーンが日本語に翻訳される際の問題点が解説された。「どっかと腰をおろし」「われこそはアッラーであるぞよ」といった井筒訳に見られるように、口語的な翻訳にはアッラーに人間的な要素を帯びさせてしまう問題があると指摘された。また、井筒訳に頻繁に見られる「ぞ」「じゃ」「よ」などの終助詞には、聞き手に対する注意喚起の役割があると解説された。このことから、クルアーンが創造主アッラーからの語り掛けを表す言葉から成ることを踏まえ、井筒訳ではアッラーとムハンマド/ムスリムが発話場面を共有していることを表そうとしたと説明された。しかし、こうした終助詞の使用は、アッラーを「年配の男性」として表象させる危険性があり、また卑俗で日常的な表現になってしまうことが指摘された。一方で、「玉座に鎮座なされる」「本当にわれはアッラーである」といった終助詞のない三田訳では、荘重さにまさる書き言葉の選択があったと解説された。最後に、以上に見てきた二つの翻訳の違いとして、日本語とは異なり、荘重でありつつ感情表出型の文体がよく見られるアラビア語の二重の性質、両者のイスラーム理解と翻訳ストラテジーの違いが挙げられた。本報告によって、翻訳の奥深さ、広くは言語学の世界に心惹かれるものを感じられ、またアラビア語に対する興味・関心が大いに高まった。

保坂修司氏による閉会の言葉を借りれば、これらの報告は、「中東への関心の低下」と「ロシア・ウクライナ戦争によるエネルギー危機」に直面している現在の状況において、「中東への関心を持ち続ける」一つのきっかけとなった。また各自の専門から、本講演会の主旨である「日本と中東の歴史的・文化的関係の『再発見』」がなされ、報告者にとって、中東に対する親近感が抱かせられる良い機会であった。

最後に、このような貴重な会を、円滑に運営してくださった皆様に、この場を借りて心より感謝申し上げます。

(東京外国語大学大学院博士前期課程・浪内紫雲)

報告2

「日本と中東――歴史的・文化的関係の再発見」と題する日本中東学会第28回公開講演会が、2022年11月26日(土)、日本大学会場とオンラインのハイブリッド方式にて開催された。後藤絵美氏(東京外国語大学)の司会のもと、まず開会の言葉にて粕谷元氏(日本大学)が、日本と中東との間の歴史的関わりについて説明を行った。

鈴木啓之氏(東京大学)の「1970年代における連帯運動と訪日パレスチナ人——現代史におけるパレスチナ問題の射程」では、日本とパレスチナとの関係性を捉える上で重要な時期である70年代に着目し、「連帯」をキーワードに活動が展開してきたことが指摘された。特に文化活動に注目した際には、武装闘争に依るのではなく広報活動を通した外交的・人的働きかけがあったこと、それがPLO東京事務所開設(1977)につながり、80年代以降の日本におけるパレスチナに関する活発な議論・活動にも結びついたことが指摘された。さらに、1970年代は研究の転換点としても捉えることができるとして、パレスチナ問題を捉える射程の広がりが示唆された。

長谷部圭彦氏(東京大学)の「大統領の畑を耕し、トルコ人と絹を織る―大谷光瑞によるトルコ初の日本資本」では、日本・中東関係史のうち、あまり知られていないと思われる事例として、大谷光瑞によってなされたトルコ共和国への投資に注目し、アンカラとブルサでの二事業の展開をたどった。大谷がアタテュルク大統領とアンカラで農場の共同経営を行っていたこと、さらにブルサでの絹布工場事業の展開に触れつつ、双方とも当時制定・施行されたばかりの商法が適用されていたことから、二事業がトルコ共和国初期の産業振興の潮流の中に存在していたことを指摘し、大谷の活動をトルコ史の文脈に位置付けた。

神田惟氏(東京外国語大学)の「高度経済成長期の日本における「ペルシャ」陶器の収集・展示・出版」では、伊東深水ら「ペルシャ」陶器を描いた昭和期を代表する画家たちに触れつつ、日本国内における「ペルシャ」古美術品に対する関心の高まりの契機、1950年代から80年代の日本におけるコレクター層、1950年代から80年代の日本における「ペルシャ」陶器および「ペルシャ」陶器画の展示・出版、国内所蔵の「ペルシャ」陶器コレクションの活用可能性について述べられた。特に1958年以降、イランとの交流活発化とともにコレクター層が拡大する中、古美術商、学者、画家との間で密接なつながりが見出され、学者の言とともに「ペルシャ」陶器のラベリングがなされていったことが指摘された。

ハガグ・ラナ氏(一橋大学)の「クルアーンはなぜ翻訳できないか――「声の文化」に生きるイスラーム」では、まず翻訳ストラテジーの存在を指摘した上で、クルアーンの日本語訳についての詳細な考察が行われた。特に口語体と文語体の対比という視点から、三田訳と井筒訳それぞれの翻訳文が言語学的観点から検討された。ハガグ氏は、井筒訳においては終助詞が多用されていることを指摘し、同時に、三田訳が起点言語志向であり、井筒訳が目標言語志向であると述べた上で、文体の選択は思想の選択を反映したものであり、それは翻訳者のイスラーム理解の違いに基づくものであると指摘した。こうした翻訳ストラテジーに基づく文体の違いは、「正しい翻訳」とはなにかという問いを生じさせるものであり、それはあらゆる読者に課せられた課題であると指摘した。

続いて行われた質疑応答では、4名の登壇者それぞれに対して複数の質問が投げかけられ、会場とオンラインの双方において、活発な議論が展開された。

そして最後に、閉会の言葉にて保坂修司氏(日本エネルギー経済研究所、日本中東学会会長)がそれまでの議論を総括し、さらなる研究の展望について言及した上で、ウクライナ戦争下、エネルギー危機に見舞われた昨今だからこそ、エネルギーの観点から深いつながりを有してきた日本と中東の関係性を再考する必要性があると述べ、会を締めくくった。

政治・外交・経済・文化・芸術と多岐にわたる分野から、それぞれ異なる視点で日本と中東の関係を分析・考察した今回の講演会は、これまで顧みられる機会が多くなかった、日本と中東との関係性を見直し、考えるひとつの機会となった。

最後に、ハイブリッド方式の公開講演会を滞りなく運営されたみなさまのご尽力に深い感謝の念をお伝えしたい。

(東京大学大学院総合文化研究科修士課程・濱中麻梨菜)