日本中東学会

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特別講演会「パレスチナ・イスラエルの現状を考える」報告

長沢 栄治(東京大学教授)

● 本講演会のレジュメ(2002.10.28 公開)はこちらをご覧下さい

 日本中東学会では、去る4月30日(火)午後6時~8時半に神田の一橋記念講堂において、特別講演会「パレスチナ・イスラエルの現状を考える」を開催した。以下、講演会の内容を報告する。
 今年の3月末以降、ますます深刻さを増したパレスチナ・イスラエル情勢に対して、学会理事会では、日本の中東研究者の立場から学会として何らかの対応をすべきであるという考えから、緊急に特別講演会を開催することとした。講演会の企画に際しては、学術団体としての主催者側の立場を明確にすべきであるという認識に立ち、「パレスチナ・イスラエル問題の現状とその背景について基本的な事実を明らかにし、今後の展望について考える材料を提供すること」を講演会の目的とした。そして、この問題の多面的な構図を異なった視点から明らかにするために、以下の四人の方々に講演を依頼した。臼杵陽氏(国立民族学博物館地域研究企画交流センター教授)、笈川博一氏(杏林大学教授)、高橋和夫氏(放送大学助教授)、鵜飼哲氏(一橋大学教授)の各氏である。以上のうち本学会員でない鵜飼氏は、報告を依頼したところ快諾していただいた。同氏の好意に深く感謝したい。なお、司会は、講演会担当理事である長沢が担当した。以下、各報告者の講演内容を簡単に紹介する(紹介に関する文責は司会者の筆者にある)。

1.臼杵陽氏「パレスチナ/イスラエル戦争への視座―シャロンとアラファトの対決か?」

 最初に同氏は、「パレスチナ/イスラエル戦争」という表現をめぐる問題を切り口として今回の事態を歴史の大きな流れの中に位置づけて見ようとする。それは第一に、最近、マスコミなどでパレスチナというと本来の旧イギリス委任統治領ではなく、西岸・ガザ地区のみを指す場合が多いからであり、パレスチナ/イスラエルという地域設定の持つ意味を考えたいからである。また、パレスチナとイスラエルの戦争という言葉は、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻の際、アラブ側で初めて使われたが、国際的に国家として認められたイスラエルとそうでないパレスチナの間の「戦争」について覚えた違和感は、今でも変わっていない。この1982年当時との類比から、シャロンとアラファトの対決という図式で今回の事態を描く見方がある。しかし、シャロンが9.11事件後の対テロ戦争の論理を適用したのは確かだが、一連の鉄拳政策は、近視眼的な対応が連続した結果であり、最初から今回の事態を想定して取ったわけではない。オスロ合意の枠組みについて言えば、相互の存在を認めるという合意における相互主義の原則が、シャロンのアラファト監禁によって破られてしまい、もはや合意の枠組みが崩壊したといってもよい状態にある。オスロ合意とは、領土と和平の交換であり、これは1967年戦争以後の国際社会で認められ、冷戦後のマドリード会議でも再確認された方式なのだが、その成否は、結局、イスラエルの占領地からの撤退にかかるものであった。オスロ合意は、その後のいくつかの合意と同様、難しい問題はすべて先送りするものであって、最終地位交渉の入り口で頓挫してしまった。強者イスラエルのイニシアチブによって成り立ったオスロ合意は、弱者のパレスチナにとって押しつけられた合意でしかなく、さらに占領を正当化し、隠蔽するものと見なされるようになった。しかし、今回の事態を考える場合、最大の問題は、なぜシャロンがイスラエルにおいて支持されるのか、ということである。もちろん、彼の人気が徹底した鉄拳政策にあることは確かだが、たとえばイスラエル社会内部でオスロ合意の経済的な恩恵から排除された人たちの問題(IT化が進む中、ローテク産業に従事する人の失業が増加した地方居住の東洋系ユダヤ住民)も考慮に入れねばならない。イスラエル問題の解決なくしてパレスチナ問題の解決はない、と考えるからである。

2.笈川博一氏「解決不能なパレスチナ問題」

 笈川氏は、今回の事態の背景として考えられる、イスラエル・パレスチナ双方の問題点を次のように指摘する。イスラエルの問題:(1)攻撃に対する過剰な反撃の背景には「滅亡恐怖症候群」ともいうべき病理学的な問題がある(ベングリオンの「サムソン的兵器」核兵器配備構想などの例を紹介)。(2)入植地の問題。1973年戦争で「屯田兵的」入植地が軍事的には消極的意味しかもたないことが明らかになり、これをよく認識したラビンがオスロ合意を進めたのだが。(3)特殊な歴史認識。アブラハムの神との土地に関する契約を国民の10-15%がまともに信じ、国会でも議論されることの意味(ナタニヤのホテル爆破事件が過ぎ越しの祭りの日に起こったことの衝撃)。(4)選挙制度による少数政党の発言力増大がもたらす否定的効果。パレスチナの問題:(1)アラファトがオスロ合意後、国家建設の方向を示せなかったこと(国家像のまったく違うハマースへの対応の問題)。民族解放運動家アラファトの個人的勇気には感心するが。(2)病的な腐敗構造(パレスチナ人の多くが社会正義が冒されている点を認識していることの問題)。これと関連して、自治政府によるガザ偏重の投資の問題。(3)経済政策の不在(外国援助を含め60億ドルの投資にもかかわらず、GDPが3割減ったことなど)。次に、当面解決不能な問題点として、(1)エルサレム問題。この問題をめぐって双方に虚構がある。ユダヤ側:巡礼記などから嘆きの壁が特別な意味を持つようになったのは15、16世紀以降のことではないか。イスラム側:エルサレムの聖地化は、コーラン、ハディースの記述にはなく、イスラム勢力占領後のこと。(2)パレスチナ難民問題。イスラエルは帰還を決して許すことはない。(3)交渉に対する基本的態度。労使交渉や日米沖縄返還交渉(繊維・自動車交渉も)の例にあるように、イスラエル・パレスチナ間の交渉が公平な立場に立つ交渉でなければならないということはない。(4)アメリカの中東政策のブレ(ブッシュ政権の9月11日以降の急変)。最後に、オスロ合意について:(1)湾岸戦争によって打撃を受けたパレスチナ側が合意を必要としていたこと(臼杵氏とは見解を異にするが)。(2)合意の失敗の原因:パレスチナの経済政策失敗と腐敗。貧しい国は近隣の豊かな国の下請けをして経済発展するという関係をパレスチナはイスラエルと取り結ぶことが出来なかった(ソフト・ベンチャーなどの例)。中国人出稼ぎ労働者の巻き添え死亡事件は、占領地パレスチナ人出稼ぎを外国人が代替している現状を象徴するものであり、その点でパレスチナの経済政策失敗を物語っている。

3.高橋和夫氏「アメリカとパレスチナ問題」

 アメリカとパレスチナ問題をめぐるいくつかの重要なポイントを指摘したい。まず、(第二次インティファーダの背景となる)クリントン政権末期のキャンプ・デービッド交渉(2000年夏)については、日本の有力な識者を含め多くの人が誤解してきた。バラクはぎりぎり譲れない良い提案をして最終的な和平への道が開かれたのだが、アラファトが指導力欠如のため失敗したとする論調が多かった。しかし、昨年夏から公開された交渉当事者の証言から見ると、バラクの提案した占領地95%返還とは、占領地にエルサレムと周辺地域を含まず、また10%を租借地とするというもので、さらに入植地とそれを結ぶ高速道路はそのままという満州鉄道的利権がパレスチナ中を走るという内容であり、アラファトが呑める内容ではなかった。決裂を危惧していたアラファトは、その場合の責任は問わないというクリントンの約束をもらって訪米したが、選挙を控えていたバラクへの配慮からアラファトが非難されることになった。また、その後のタバでの交渉が示すようにバラク提案がイスラエルが譲れる最大の案であったとも思えない。次にブッシュ政権は、難しいパレスチナ問題に手をつけるつもりはなかったが、9月11日事件以降、パレスチナ問題の方がホワイトハウスに飛び込んできた。国務省と国防総省の食い違いに見られるようなおたおたぶりは、政策なしに船出したスーパータンカーのようになかなか政策の方向が決まらない。何にも考えていないブッシュは、異なった意見をすべて聞こうとしてぶれてしまい、それを見ているシャロンは言うことをきかない。ブッシュ政権に圧力がかけられないかというと、選挙でユダヤ人のお世話になっていない共和党出身であること、対アフガニスタン軍事行動で国民の人気が高いことを背景にして、やる気があれば行動できるだろう。今や事態は、国務省のパウエル(和平推進)と国防総省のウォルフォビッツ(イスラエル支持)の対立に代表される、異なった意見のいずれかを選択しなければならないところに来ているのだが、ブッシュはやはり見かけどおりの大統領であったということだ。

4.鵜飼哲氏「大侵攻前夜のパレスチナ」

 先月(3月)に大侵攻直前のパレスチナを訪問したときの証言を中心に話したい。臼杵さんを含め私たちの世代にとって、パレスチナ問題とは、今は忘れられている20年前の1982年の戦争だった。サブラ・シャティーラからジェニンへというこの20年の間、世界は冷戦の終焉、湾岸戦争などと大きく変化したが、パレスチナ人虐殺の構図は少しも変わっていない。シャロンが国防相から首相になり、虐殺の主体がキリスト教右派民兵からイスラエル国防軍になったが、いったい何が変わったのかという同時代人としての徒労感を覚える。一方で、現地の事態を直接見ようとする動きは、1982年当時(ジャン・ジュネのルポ「シャティーラの四時間」など)よりはるかに増えた。これはパレスチナ紛争に対する国際的な認識が大きく変わったことを示している。20年前には冷戦体制下で問題はあったが国際平和部隊を派遣できた。今回それができないという危機意識が、平和部隊に代わって何とか救援しようという人々の数となって現れており、それ自体が一つの運動となっている。この地域で起きることが世界のあらゆる国の現実に影響を与えるということは現在疑いない認識となっているからである(日本の憲法問題と湾岸戦争の関係)。さて、今回国際作家会議の訪問団に参加して最初に訪れたのはラマッラーのサカーキーニ文化センターであるが、ここでのパレスチナ知識人との対話の中で、パレスチナ問題とは言葉自体が崩壊してしまった地域の問題だというフランス人の発言が印象的だった。たとえば、ここの紛争からテロリズムという言葉が世界中に広まっていったが、誰がテロリストで誰が平和を望んでいるのかということが分からなくなってしまっている。今の世界で言葉を再現しようとすると誰もがパレスチナ問題に関わらざるを得ない、という内容の発言だった。この文化センターは4月13日にイスラエル軍によって完全に破壊された。その後、ビルゼイト大学を訪問し、きびしい検問のため女子学生が単位を落とすことが多いなどの話を聞いた。エル・アマリー難民キャンプではイスラエル軍が壁をぶち抜きながら侵攻する「新技術」の痕を目にした。さらにアラファトと面会したが、言葉は明快で受け答えすべて高い知的水準を示していたように見えた。アラファトの追放論、最近はガザ移送論が出ているが、イスラエルがなぜこだわるのか、具体的な闘争における指導者の機能という点から考え直す問題があるように思う。最後にフランスのユダヤ人社会が今回の事態を受けて分裂の傾向を示している点を指摘しておきたい。キャンプ・デービッド交渉から第二次インティファーダが起きるプロセスで重要だったのはエルサレム問題以上に難民の帰還問題であった。暗殺される直前のラビン首相がユダヤ人自身の帰還権をまず最初に放棄するとしたという記事がフランスの多くの雑誌に掲載されたことがある。これと暗殺の関係は不明である。おそらくそれによってパレスチナ人の帰還権を断念させようというものであったろうけれど、現在は後者の問題のみに焦点が当てられている。こうした中、最近3月にフランスのシオニスト左派の一部がパレスチナ人の帰還権を認めよという論調を打ち出している。しかし、反対にイスラエル全面支持のデモも企画され、世俗国家フランスの中で生きていこうとしてきたユダヤ人社会に亀裂が走っている。

 以上の各報告の後に多くの質問が会場から寄せられたが、それに対する講師の回答を含め、紙面などの問題もありここでは割愛させていただきたい。各講師の話は入門的なレベルでなく、かなり専門的な内容のものが多かったが、質問者もすでに相当の知識をもった方がほとんどであった。多くの質問の中で、司会者にとってもっとも印象的だったのは、共存とは対等な立場に立つ者同士の間で成り立つものかどうか、という問いかけであった。これはパレスチナ・イスラエル問題にとどまらず、普遍的で大きな問題であるが、学会で11月に企画している定例の公開講演会のテーマとも関係している点を宣伝の意味を込めて指摘しておきたい。
今回の講演会は、連休の谷間であったにもかかわらず、予想を越える300人近い数多くの聴衆を集めて開催された。当日配布したアンケートに答えていただいた方は161名であり、そのうち11.8%が20歳未満、20-29歳が43.5%、学部生が42.2%であり、71.4%が知人・先生の紹介であった。とくに個人的に広報をお願いした会員の力が大きかったものと思われる。お礼を申し上げたい。また、当日会場係としてお手伝いしていただいた東京大学・千葉大学の大学院生の方々にも感謝したい。講演会では、資料集を作成したが、これについては現地からの報告を寄せていただいた東間史歩会員、年表などの資料をまとめていただいた錦田さん(総合研究大学院大学博士課程)にもお礼を申し上げたい。