日本中東学会

中東研究レポート

長い前哨戦と消耗戦:過去のガザ攻撃との比較から

鈴木 啓之(すずき ひろゆき/中東学会会員 東京大学大学院)

本年(2014年)7月8日から続いたガザ攻撃(イスラエル軍作戦名称:「防衛の刃, Operation Protective Edge」)は、残念ながら人的被害ならびに戦闘期間ともに過去7年間で最悪のものとなってしまった。8月27日の停戦時点までの判明でガザ住民2100人以上が殺害され、イスラエル軍も60人を超える死者を出している。
ハマース(イスラーム抵抗運動)がガザ地区を実効支配してからの7年に、大規模な攻撃は少なくとも2回あった。通称「ガザ戦争」と呼ばれる2008年12月から2009年1月にかけての「鋳造鉛作戦(Operation Cast Lead, 2008年12月27日~2009年1月18日)」と、「ガザ攻撃」などと呼ばれてきた2012年11月の「雲の柱作戦(Operation Pillar of Defense, 2012年11月14日~21日)」である。今回の攻撃は、被害が過去の2回の攻撃と比較して最大規模であるだけではなく、前哨戦と停戦交渉開始後の消耗戦が長く続いた点が特徴的であると言えよう。

「前哨戦」とは、6月12日に西岸地区のヘブロン近くで、イスラエル人青年3人が失踪してからの西岸地区での大量逮捕とガザ地区への小規模爆撃を意味する。これが、ガザ地区への大規模空爆開始(7月8日)まで一ヶ月近く続いた。西岸地区では7月3日までの時点で650人以上が逮捕され、その中には議員やギラド・シャリットとの捕虜交換で解放された囚人も少なからず含まれている(658人中60人, al-Ayyam, 4 Jul. 2014.)。すでに戦闘が本格化していた7月14日時点で、ハマースが停戦の条件に「囚人の解放」を含めた所以である。
この西岸地区でのイスラエル軍による大量逮捕、大規模捜索と、それに対する抗議活動は、7月2日に17歳のパレスチナ人青年が東エルサレムで焼死体となって発見されることで衝突の頂点に達した。行方不明であったイスラエル人青年3人の遺体発見から2日後のことであり、報復的なリンチであったことに抗議が噴出した。翌日からエルサレムを中心として西岸地区各地で衝突が発生し、新聞の見出しには「インティファーダ」の文字が躍った。 一方で、ガザ地区に対する小規模爆撃は、イスラエルのネタニヤフ首相が入植者失踪の首謀者がハマースであると名指しした翌日、6月16日から報道がなされるようになった。当初は負傷者のみが伝えられていたが、26日には車に乗っていた2人のパレスチナ人が犠牲となった。ガザから散発的にロケット弾の発射の報道が聞かれ始めるのも、この頃である。

こうした「長い前哨戦」を経て7月8日に始まったガザ地区への大規模爆撃は、南部のラファハ近隣地域やガザ市東部のシュジャーイーヤ地区などで被害を拡大させた。7月18日の地上侵攻開始を経て、戦闘開始から19日目の7月26日には、パレスチナ人犠牲者は1000人を越えた。しかし、こうした激しい戦闘の後に待っていたのは、再びの「長い消耗戦」だったのである。

8月5日に72時間の短期停戦が発効してから、長期停戦に向けた交渉と並行して長い「消耗戦」が展開された。この時期に、ガザ地区住民の被害は2100人を越えるに至っている。8月26日の長期停戦の合意までの実に三週間近くにわたって展開されたこの「長い消耗戦」も、今回の攻撃の特徴である。
特に、ハマースの幹部レベルでの被害に着目すると、過去の2回の攻撃と今回の攻撃の違いが歴然となる。2008年や2012年には攻撃の開始早々に内相や司令官をはじめとして治安・軍事関係者が殺害されたが、今回の攻撃では消耗戦に突入するまでハマース幹部の被害は伝えられなかった(8月21日にハマース軍事部門カッサーム大隊の幹部3人が標的爆撃で殺害された)。
今回の攻撃において、ハマースはこれまで以上にイメージ化されていたと言えよう。住宅地や農地、モスクへの攻撃では、ハマースが存在すること自体が理由とされた。だが、すでに述べたとおり、実際に組織としてハマースが被害を受けるのは、消耗戦突入後であった。この点は、例えばイスラエル軍がTwitterで発信するハマースのイメージが、まさしく顔を持たない「グラフィック・イメージ」であった点からも考察できよう(アカウント:@IDFSpokesperson)。曖昧な標的を狙った砲弾は、ほとんど無差別と言ってよい形で住宅地や農地に撃ちこまれ、犠牲者を増やしたのである。

パレスチナの暫定自治が始まって20年目の今日、私たちはハマースという存在を口実に、ガザ地区が自治と人権の枠外に置かれる深刻な事態に直面している。ハマースを個人名抜きのアイコンとして捉える限り、またガザ地区をハマースという一組織のみによって捉える限り、日本語社会で生きる私たちもこのロジックから逃れることはできない。より詳細かつ長期的な視点に立った研究、報道が求められているのであり、それがこの地域への関わり方を自ずと示すものと期待したい。