日本中東学会第17回公開講演会
「庄内からイスラームを考える」
報告
2011年(平成23年)11月12日(土)、山形県酒田市総合文化センターで、日本中東学会主催、酒田市、酒田市教育委員会、酒田市図書館・光丘文庫、大川周明顕彰会後援の、「庄内からイスラームを考える」と題された公開講演会が開催された。そのプログラムは、以下のとおりである。講演会は、ほぼプログラムに沿って進行した。
プログラム
- 13:30~13:35 主催者挨拶・大川周明顕彰会会長挨拶
- 13:35~14:05
講演1「アラブ革命と日本」長沢栄治(東京大学) - 14:05~14:35
講演2「大川周明のイスラーム研究」臼杵 陽(日本女子大学) - 14:35~15:05
講演3「内藤智秀とイスラーム」三沢伸生(東洋大学) - 休憩
- 15:20~17:00
パネルディスカッション「中東イスラーム世界と日本―イスラームと大川周明に注目して」 - 15:20~15:35 基調報告1 佐藤昇一(大川周明顕彰会)
- 15:35~15:50 基調報告2 松長 昭(笹川平和財団)
- 15:50~17:00
- 自由討議
パネリスト:長沢栄治・臼杵 陽・三沢伸生・佐藤昇一・松長 昭
司会:加藤 博(一橋大学)
講演会は2部からなり、第一部は三つの講演から構成された。講演会は「大川周明とイスラーム」を主たる議題として企画された。しかし、日本中東学会主催の公開講演会が学会活動の社会還元を目的としているところから、中東において現在展開し、耳目を集めている「アラブ革命」について解説した講演1と、大川周明の思想を広い文脈で、そして相対的な視角から議論するために講演3が設定された。
講演1「アラブ革命と日本」では、まず写真を紹介しつつ、そして東日本大震災(3.11)との比較にも言及しながら、エジプトのムバーラク体制を崩壊させたアラブ革命(2.11)の経緯と背景、そのもつ歴史的な意味が解説された。そこで強調されたのは、抑圧と腐敗の原因を断つとの意欲からの自己犠牲の精神と希望の共有であり、アラブ諸国における新しい社会契約の実現への期待であった。次いで、以上のアラブ諸国の変革を踏まえて、戦後における日本と中東との関係の歴史を振り返る中で、イスラーム、中東、アラブに対する既成のイメージと偏見を克服し、個人ベースでの交流と文化への関心を高めるべきことが提言された。そして、かかる目的のために、戦前における日本のイスラーム研究を振り返ることは有益ではないかと講演を結んだ。
講演2「大川周明のイスラーム研究-『回教概論』とコーラン翻訳」では、大川周明のイスラーム研究が概観された。まず大川の生涯を振り返り、彼の研究者の出発点と終着点において、イスラームという宗教が彼の思想において大きな位置を占めており、イスラームは彼の思想形成に多大な影響を持っていたにも関わらず、この点について注目されることがなかったこと、しかし、それを指摘し、大川のイスラーム研究に対して高い評価を与えたのが竹内好(1910-77年)だったことが指摘される。そして、大川のイスラーム研究の復権に大きな力があったのが井筒俊彦の大川への言及であったことを確認した後、大川のイスラーム観を井筒の「イスラームの二つの顔」、つまり(1)「律法に基づいて外面的生活を律する共同体的イスラーム」と(2)「内面的生活を重視する精神的イスラーム」という分析概念を使って、大川のイスラーム観が青年時代の(1)から政治に関与した時期の(2)をへて、晩年に再び(1)に戻ったと主張した。
講演3「内藤智秀とイスラーム」では、大川周明と同じく庄内地方出身のトルコ研究者、内藤智秀の事績が紹介された。内藤は大学の西洋史学科を卒業したが、その研究者としての経歴をバルカン研究者として出発した。当時のバルカンにおける民族運動に触発されたからであった。その後、外務省勤務の過程で、トルコ研究へと転じ、後年、研究生活に復帰してからは、トルコに関する研究者、教育者としての生涯を歩んだ。同じくトルコ研究者であった大久保幸次とは対照的に、政治とは距離をおいた研究生活であった。同郷の大川周明とは接点があったようであり、今後、両者の交流の解明が望まれるが、より広く、大川周明や内藤智秀の生涯や思想と彼らを育てた庄内地方の文化や人脈との関係が研究されるべきであると結ばれた。
第二部は「中東イスラーム世界と日本―イスラームと大川周明に注目して」と題され、二つの基調報告と自由討議からなる、パネルディスカッションであった。基調報告1では、大川周明の思想と庄内地方の文化との関係が、地方史家の立場から論じられた。大川家は鶴岡の医者の家系出身であり、大川周明の気質は商人の町、酒田よりも、武士の町、鶴岡の文化の特徴に近いのではないかとの指摘があり、庄内地方の文化については、出羽三山の修験道の影響力を強く受けており、それが中東の遊牧文化との間の類似性をもたらしたかもしれないとの、興味深い問題提起があった。基調報告2では、大川周明の宗教観には、大学で学んだ比較宗教学の影響が強くみられ、そのためもあってか、大川のイスラーム観は観念的なものにとどまっていたのではないかとの、鋭い指摘があった。実際、大川は中国やインドの政治家や知識人と深い交流を持ったが、イスラーム教徒の政治家や知識人と同じような深い交流をもった形跡はない。
自由討議では、二つの基調報告を踏まえて、主として次の二つの話題をめぐって、フロアーの参加者を交えて、活発な議論が展開された。第一は、大川周明の気質、思想と酒田の文化との関係である。その中で、大川に顕著な合理的、理性的発想の背後に、米相場をはり、勘定高い商人都市、酒田の文化があるのではないかとの興味深い指摘があった。第二は、大川のイスラーム研究と政治との関係である。この点については、大方の論者が、大川のイスラーム研究における政治性の希薄さ、彼のイスラームへの関心の背後にある、反植民地主義への強い情熱を指摘した。そのほか、参加したフロアーの酒田市民からの「イスラーム世界におけるアメリカのプレゼンス」、「イスラームと日本の伝統文化との関係」など、素朴な疑問に対する質疑応答もなされ、有意義で楽しい公開講演会であった。聴衆は100名近くに上った。これは、地方都市で開催された公開講演会で最高の人数である。これも、事務・広報・会場設定に尽力された大川周明顕彰会メンバーの方々のおかげである。ここに、改めて、お礼を申し上げたい。(2011年11月15日記)(加藤博)